ここち屋 オープンして
早いもので 1ヶ月と半。
いろんな人が きたよ。
4月の終わりまでで
大人 866人
子供 294人
(お金を払った人)
カウントしてない子供たちはもっとわんさか。
来たひとが落書きしてった壁も
もう書くとこがなくなったから
一回うすく上塗りしてまたはじまった。
学校が終わって 小学生がわんさかくるし
ちっちゃい子も おっきい子もみんな混じって遊ぶし
その横でお母さんたちは話に夢中になってるし
いろんな楽器があつまってくるし
お客さん通しで勝手に仲良くなってるし
開店から閉店までまったりしてる人もいるし
車いすで足しげく通ってただ飯をくらいながらアクターをしてる子や
床下を泥まみれで掘って部屋をつくるやつや
着物をぬってその部屋のしつらえをする子や
春休みの宿題をもってきて 子供がわーわーいうてるなか勉強する高校生や
111円のごはんだけたべにくる小学生や
なんかもう
ほんまに 川の流れの中のひとときの たまり場
ぐるぐるっと混じって わーわーいってまったりして
また 流れてく。
ほんま
おもったもの以上のいろんなことが起こってる。
お客が スタッフやシェフになり 一日店長になり
また客になり、混じり合う感じ。
ここは スタッフとお客の垣根をはずし混ぜる店。
だから客を客扱いしない。
スタッフをスタッフ扱いしない。
あっちがわとこっちがわに ならない。
ここにいる時は みんな おんなじ側にたつ。そんなありかた。
仲良くする必要はないけど たってるとこは同じがわ。
それを大切にしたい。
だから ここち屋で働いても 金銭的対価は得られない。
でもだからこそ 味わえるものがある。
でもだからこそ できることがある。
逆に「金銭的対価」を得て自分を切り売りすることで
失ってる何かがある。「しかたない」とかいいながら。
これは俺が 10年前に
スコットランドのフィンドフォーンで
うけた衝撃。
お金を払って 働く人たちがいるという事実。
それも 喜んで。
俺もそれをやってみた。
くさいくさいゴミが詰まった水道管パイプを採掘し撤去する工事。
金をもらったって絶対やりたくない仕事。
それを金を払ってやってる俺。
飛行機にのってものすごい田舎まで高い金を払ってやってきて
へ泥まみれになってる俺。
そこでおもったこと、感じたこと。
あれは 絶対 金をもらってたら味わえへんもんやった。
それがなんやったかなんて野暮なことはいわんけど
それから 俺の「働く」はまったく違うものになった。
「働く」は苦しみではなく「喜び」に。
だれでも 「やる」のひとことで 「やる」側になれる世界。
だれでも「やって」のひとことで「やってもらう」側になれる世界。
そのどっちもが機能する。
「みる」側から 「みられる」側へ
「応援する」側から「される」側へ
そして「みられる」側と「みる」側へ
「応援する」と「される」側
どっちも同時にできる世界。
それを 味わう。
自分を舞台に あげる。
ここち屋は そんな舞台。
すでに 20人近くが シェフを経験。
アクターもゾクゾク 増殖中。
いつでも 「やる」のひとことで やれる舞台の 扉は開けとくから
いっぺん あそびにおいでな。